鹿狼山から  
27 〜秋祭りの再開〜    小幡 仁子

2011年3月11日の震災で、私の住む新地町は大津波により甚大な被害を受けました。海岸部3地区が流失し、100名を超える方が亡くなりました。あの年は、盆踊りも秋祭りも一切なく、また何かを祝うような気持ちにもなれず、ただ時が過ぎていった気がします。被災された方が避難所から仮設住宅に移り住み、今年になってからは、集団移転のための造成地に家が建ち始めました。また、この11月には、家を失ったお年寄りの方々が被災高齢者共同住宅へ入居されました。狭く住み辛い仮設住宅から快適な新住居へ引っ越すことができたのを同じ町民として喜んでいます。

先日、どうしているのかなあと気になっていた方に、偶然出会いました。震災前に奥様を事故で亡くされ、この津波で家を流されたのです。風の便りに、鬱病のような状態であるとか、仮設に一人暮らしをしているとか聞きました。一回り小さくなられたような気がしましたが、穏やかな笑顔でした。最近、家を建て、息子家族と暮らし始めたということでした。「いやあ、2年半は長かったなあ。長すぎた。」とおっしゃっていました。心労は測りしれませんが、新しい生活に、前向きに歩んでいるようでした。

10月の回覧板に秋祭りの案内がありました。「震災後初めての地区秋祭りになるので、ご協力・ご参加の程よろしくお願いします。秋祭りでは愛宕神社の神事、御神輿渡御行列、町多目的集会所では出店や芸能祭を行います。」という内容でした。

11月3日に花火の合図と共に秋祭りは行われました。私は今年度、班長当番なので受付の役を仰せつかりました。集合場所の愛宕神社に行ってみると、20代〜40代くらいの御神輿の担ぎ手が沢山集まっていました。若い禰宜様がいらっしゃって祝詞を上げられました。先代の孫息子がこの度新しく神官職を継がれたということで、神事を行うにも、初々しさが感じられました。神事が終わる頃に、賑やかに子ども達がやってきました。この地区の子供会でした。小学生と、母親に手を引かれるような保育園児も中に入っていました。下の公園で神事が終わるのを待っていたようでした。子ども御輿を担ぐために、法被を来て豆絞りの鉢巻きをし、出番を待っていたのです。少々待ちくたびれたようでしたが、大人には御神酒、子供にはジュースが配られるとニコニコしていました。

我が家の二人の息子も、ずいぶん昔のことになるけれど、こうやって子供御神輿を引きに来ました。大人の御神輿の後について、町内を練り歩くのです。町内にはあちこちに御神輿の休み所があって、大人には御神酒が振る舞われ、子供にはジュースやお菓子が配られました。「ワッショイ、ワッショイ!」と大きい声を出して一周すると結構疲れたのを覚えています。子どもが中学生までは、子供会の世話や部活動の世話などで地区のお母さん達とも話す機会が多かったのですが、今回は顔見知りの方はいませんでした。そして自分の住む地区には若いお母さん達や子ども達がたくさんいることに驚きました。町中に子どもの元気な声が響くのは良いものだと思いました。

私は、集会所で受付の仕事を始めました。地区の80歳以上の方は秋祭りにご招待されていました。腰を曲げながら、あるいは杖をつきながらも皆さん歩いてこられました。髪や身支度などもきちんと整えられていました。この秋祭りを楽しみに待っておられたのでしょう。御祝と書かれた熨斗袋をいただき、名前を確認したり、席に案内したり、お赤飯や婦人会で作った豚汁を出したりと、忙しく働きました。集会場は満員になりました。集会所のステージでは踊りや民謡の発表、ハーモニカクラブの演奏等が披露されて、芸達者な方が大勢いるのに驚かされました。手拍子や掛け声が飛び交い賑やかな芸能祭となりました。

震災・大津波という災害があり、この町の将来はどうなるのだろうと思いましたが、こうしてみると、御神輿を担ぐ若い世代もいるし、保育園児や小学生が集まって「ワッショイワッショイ」と子供御神輿を担いで回るし、お年寄りはご招待を喜んで集まってきています。2年9ヶ月は停滞していたのでなく、日々新しく動いていたのだと思いました。人は大きな時の流れに乗って生き、休むことは無いのかもしれません。

80歳を過ぎた父は「生ぎでいればいろんなごどに遭う。これまでだって色んなごどがあった。戦争もあった。立ち退きもあった。これがらだって、何あっか分がんね。おどろぐな。」と、こう言っています。何があっても生きているものは知恵を出し、協力して日々を暮らさねばなりません。秋祭りの最後に区長さんが「皆様のご協力のお陰で良い秋祭りになりました。ありがとうございました。」と言っておいででした。私も班長としての役目を果たし、ほっとしました。

御神輿魂入れ

御神輿の担ぎ手達

子供御神輿の担ぎ手達