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今日は3月11日。あれから1年が過ぎました。ここ新地町では大津波により100名を超える方が亡くなり、沿岸部の町並みが消え去りました。本日、町の総合体育館では追悼式が行われました。
私は勤務先の生徒が一人、この津波によって亡くなったので、お墓参りをするために出かけました。早めに家を出て海の方に立ち寄ってみました、国道6号線を東に50mほど下ると、そこは未だに別世界です。「日常の生活」というものが消え去った、なんとも孤独で荒れ果てた世界が広がっています。ガレキは片付けられましたが、あちこちに転がる大きなコンクリートの塊は、津波で破壊された堤防の破片です。倒れたままの電柱は、運ぶには重すぎるのか、運ぶ先がないのか、これも津波の破壊力のすごさを物語っています。多数の家々は基礎コンクリートを残すのみです。
今日は一周忌に当たるので、法要で親族が集まったのでしょう、土台しか残っていない家に入り、指差しながら話している光景がありました。ここが茶の間だった、ここは台所だったなどと確かめているようでした。黒ネクタイの喪服姿でしたから、そこに住んでいた誰かが流されて亡くなったのです。お坊さんの姿もありました。お坊さんと一緒に手を合わせて、何度も何度も頭を下げて祈っている女性もいました。改めて、ここには数え切れない悲しみがあったのだと思いました。
新地町では、この大津波で町域の5分の1が浸水しました。600世帯近くが半壊・全壊の被害を受けました。家を失った方は、町に数カ所ある応急仮設住宅に住んでいます。今回の町議会で、この津波浸水地域は、人が住む住宅や施設は建ててはいけない災害危険地域に指定されました。被災した町民の方も賛同してくれたということです。早い時期に海岸には防潮堤を建設し、災害危険地区は防潮林や防災緑地を配置し、また、道路や鉄道を整備して、二線堤をいう考え方で「減災」していくことになりました。
1000年前にあったという大津波の到達点が、今の国道6号線と一致するといいますから、国道の東側の低い土地は、本当は危険な土地だったと思います。人間は自分たちに都合が良いように埋め立てたり、開発したりしてきました。海抜0m地帯でも、厚いコンクリートの堤防を築き、それで安心して暮らしてきました。しかし、人間は自然の脅威の前には無力であることを思い知らされました。この先も何があるか分かりません。原発の問題を含めて、人間は自然に対してどのように働きかければいいのかを、考え直さなくてはならないでしょう。
さて、教え子のお墓参りには、同級生達が集まってくれました。職に就き、およそ1年になります。この震災で仕事のスタートが遅れましたが、職場に慣れ、各々が自分の役割を果たして、無事にお給料をいただいているようです。レストランで一緒に食事をしましたが、旺盛な食欲には目をみはりました。若者はエネルギッシュです。久しぶりに話が弾みました。
教え子のお墓は、海の見える高台にありました。ここまでは津波はこなかったものの、直ぐ下には基礎しか無い家の敷地が見えました。また、ひしゃげた車も残ったままでした。教え子の家はここの直ぐ下にありました。早くに逃げてここまで来ていれば助かったのでしょうが・・・。
「おーい、来たぞ。いやあ、さみい(寒い)なあ!」と一緒に来た中の誰かが大きな声で言っていました。「おーい、来たぞ」はこの津波で亡くなった友達に語りかけたものと思いますが、その口調の屈託のなさに、私たち大人は顔を見合わせて笑ってしまいました。これからの未来を支える若者は、このように元気なのが一番です。辛いことも悲しいこともあるけれど、日々一生懸命働いて、社会の中で役立ってもらいたいと思いました。そして、ここに眠る友達のことを忘れないでいましょう。彼は私たちの心の中で生きるのだから(2012年3月11日)。??????
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